Sig’s Book Diary

関心本の収集

『複雑さを生きる:やわらかな制御』

original: http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/b75e59fc31e930f07c4d9f9cdd7fdbae

安富歩、2006、『複雑さを生きる:やわらかな制御』、岩波書店

本書は、宮沢賢治の『春と修羅 序』の冒頭の詩句にでてくる

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(以下、略)

を序章冒頭におき、「わたくし」と「社会」の関係性のあり方について、複雑性をキーワードにして、文理を架橋して個人と社会のあり方について、問題提起を行う。詳しくは読んでいただくほかないのだが、20世紀のキラ星の知性たちの思考思索をめぐって考察がすすめられ、めくるめく思いの中、様々な事が腑に落ちてくるだろう。
例えば、「ハラスメント」。著者はハラスメントについて、「ひとがコミュニケーションを実現するために形成する信念、すなわち相手も自分と同じ世界をもっているだろうという信念と、その信念を基盤として相手を理解するための理論を構成しようと言う努力とを悪用し、他者を操作しようとすること」(本書74頁、以下同じ)であるとする。さらに、「ハラスメントによって搾取された人間は、往々にして同じタイプの操作を別の他者に向けるようになる」という。ハラスメントの行為は、人間による他者理解の手段、他者が自己と「同じような世界を持っている、とまずは勝手に信じ込み、何らかの動きを示すというかけにでざるを得ない」という人間理解のための本質を逆手にとるというものである。
著者は人間理解のための本質を「学習」(本書75頁、以下同じ)とよぶ。ハラスメントは、「この学習のダイナミクスを悪用する事で成立する。自分はこの学習過程を作動させず、相手にのみ無駄な学習を続けさせる事が根幹である」。やがては自己はハラスメントをする他者を「うまく解釈できないのは、自分の学習能力に欠陥があるせいなのだと考え始める。・・・不安に陥り、その自身と判断力を奪われる」(本書77頁、以下同じ)。そして、ハラッサーは「お前は何もわかっていないのだから、私の言う事を聞けばいい、お前は私の幸福のために働けばいい」というハラッサーにとって好都合な行動基準をあなたに送り込む。
こうして、ハラッサーと被害者の間の支配/被支配の関係が成立する。人間のコミュニケーションの本質に基づく関係は、こうした関係に発達する可能性を常に常にはらんでいる。しかし、たいていの関係においては、加害者がコミュニケーションの過程において犯した過ちに気がつき、反省し、その事を他者に伝え、また、被害者もその事を理解するという調整過程にはいる。ところが、人間の中には、そうしたフィードバック機構を持たない、自己愛的なモラル・ハラスメントの加害者が往々にして存在するのである。
また、「ハラスメントの根源が、コミュニケーションそのものの本質と関わっている以上、それを根絶する事は不可能である。すべてのコミュニケーションが潜在的にはハラスメントたりうるからである」(本書89頁)。そうした状況に対処し、「ハラスメントの魔の手から逃れるには、相手を理解するための理論形成の学習過程を作動させたり停止させたりする自由を確保する事が肝要である」(本書90頁)。

著者はその処方箋を示すのだが(本書94−5頁)、すべての人が「断固たる姿勢をしめす」ことが出来るとは思えない。しかし、少なくとも、ハラスメントを行う事が非人間的であるとして単に排除してしまうのではなく、ハラスメントが人間のコミュニケーションの本質に関わり、誰もがなし得ることを相互に了解する事が、きわめて重要なのではないだろうか。
そして、冒頭の宮沢賢治の詩、「有機交流電灯」である。私たち有機体は他の有機体と交流する事によってお互い灯し合う事が出来る。この本質からは逃れる事は出来ないのである。著者は、ハラスメントに関わる議論を経て、「やわらかな制御」や「やわらかな市場」という概念を提示しつつ、「市場/共同体のような幻想の対立枠組みに依拠して思考してはならない」と説く。いずれにしても(と、長くなったこの書評を閉じようとするのだが)、著者の文理を超えた人間理解の提示とフィールドワークに基づいた論理構成は、小気味よく、同時に、複合的な内容にも関わらず、むしろよく理解できた。読むべし。

複雑さを生きる―やわらかな制御 (フォーラム共通知をひらく)

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