Sig’s Book Diary

関心本の収集

『滝山コミューン一九七四』

original: http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/00517f47566b7e826ff9dd917d2924da
原 武史、2008、『滝山コミューン一九七四』、講談社

わたしは、著者よりも11歳年長だ。しかし、団塊世代全共闘世代からは、数年下だ。これだけ短い間の年齢差だが、大きな違いがあるようだ。ちょうど私が大学生の頃に、かれは、本書で記述される小学校時代を過ごしていたことになる。彼の小学校時代の教員は、全共闘世代が若手、戦前戦中派が中堅と言ったところであろうか。
本書のテーマは、同世代の友人たちが既に忘れ去ったかの集団教育についての違和感を持ち続けた著者の日本社会に対する警鐘といえば、言い過ぎであろうか。戦前であれば、天皇の赤子、ほしがりません勝つまではの思想教育、そして、一転、戦後は、戦前と同じ教員が民主教育をにない、東西冷戦構造の中で左翼系であれば、ソ連型の集団教育を実践し、はたまた、逆の立場であれば、愛国教育に走るという、日本社会の持つ本質的な宿痾とも結うべき集団主義への不快感であろうか。
現在も学校教育の持つ、その本質は変化していないのではないかという危惧はつきまとう。教育はもちろん強制力を伴うのだが、個人の持つ個別の能力を発揮させるための方法は、制度的な学校教育はむしろとってこなかったのではないか。少なくとも、社会性の育成と称して、学級を構成させるという原点から脱却ができない以上、それは、困難であろう。
本書としても、解決策を出した訳ではない。著者自身、中学校から私学に移って、闘争を回避した(もちろん、それは健全な判断であったろう)し、また、同じ学校システムのルートを使って大学に入ることはなく、別の私学システムにうつって、自らの実践としては、行動として体制に対してネガティブな反応をしてきたのだから。

私の場合、東京ではなく大阪の郊外の地付きの小学校中学校時代を過ごしたので、本書で報告されるような、恐ろしい経験は記憶にない。バズ学習というのが中学校時代のキーワードとして記憶にあるのだが、これは、うまく運用できていたのかどうか、定かではないが、討論と相互支援のシステムであったような記憶がある。ここでは、あくまでも小集団の中で完結していて、本書で述べられるような、全校を支配するような展開はなかった。もっとも、教師の個人の資質や環境の影響もあったのであろうが。
しかし、一方、バズ学習の指導者であった教員は、いわゆる当時の「不良」のやり玉であったし、クラスはひどく荒れていて、教員で生徒の暴力を回避できたものは、しっかりと主張する一部教員だけであった。「不良」たちのターゲットは、教員であって、いじめはなかったし、あまり、生徒間のトラブルはなかったように記憶する。そして、学校間の抗争が、えらく、頻繁に行われていた。
ちょっとした時間差でおこったこれらのことが、じつは、世界情勢を反映したものだとは、当時の小中学生としては一向に理解できなかったし、教員たちの理解もそうではなかったであろう。そして、いまもまた、あいかわらず・・・。

滝山コミューン一九七四

滝山コミューン一九七四