Sig’s Book Diary

関心本の収集

『ハイスクール1968 』

四方田 犬彦、2008、『ハイスクール1968 』、新潮社(新潮文庫)

著者は、東京のエリート校に在籍し、私は大阪郊外の府立高校に通っていて1970年3月の卒業。だから、学年が1年違うだけだといっても大きく実経験はことなる。しかし、本書で言及される出来事は、ほぼ共有体験といってよい。懐かしく、苦い思いで読み進んだ。本書の読み方としては、いろいろあろうが、私としては、本書を自身の思い出の引き出しとして読んだ。関連して私の思い出を書いてみよう。

大阪郊外の公立高校でも、1968-9年には、嵐が吹いていた。と同時に、ある種隔離された平和であったかもしれない。私の通っていた府立高校は別名「体育専門学校」とよばれていて、体育教師が相当羽振りを利かせていた。
いや、そうであっても、私たちは彼らが好きだったというべきかもしれない。M先生やK先生は暴力的ではなく我々を様々なスポーツに巻き込んでいった。1年から3年まで、体育祭における全校男子によるマスゲーム「スタンツ」は、反発しつつも、結構、楽しかった。また、通常の体育の時間も1500メートルのタイムレースは日常であったし、運動部であれなんであれ、とにかく、身体を動かされていた。
制服制帽が強制されていたし、女子はスカート丈や髪の毛の長さ、リボンなどもコントロールされていた。そんな、普通の府立高校でも、時代の波は押し寄せていた。
同級生のTは、べ平連の活動家であったし、Yは赤軍派反戦高協に所属していて、1年生のときの無口でおとなしかった印象は一新された。時に、クラス討論で過激な議論を挑んだ。逆に、Nは父親が共産党所属の市会議員だったので、おそらく民青だっただろう。先年、ガンで亡くなったとの知らせを受けたT(べ平連のTとは違う)は、思想的には無色であったが、正義漢であった。不正なことは許せない。そういう立場で、私たちの仲間であった。
かれらとは、教室やグランドで乏しい知識ながら、世の中で起きていることについて議論を重ねた。また、1968年の市岡高校でのバリストのとき、同調する不穏な空気が流れたし、1969年と1970年の卒業式前には、卒業式の自主運営を掲げた動きがあった。さらに、私たちは、自分たちの卒業式(1970年 3月)に向けて、「6人委員会」と自称した委員会を立ち上げて教員と数回の会合を持ったが、次第に運動は尻すぼみになっていった。そして、われわれ3年生は受験戦線に参戦するために、ひとりふたりと、メンバーがかけていった。卒業式も、恒例に従って挙行された。
べ平連のTとわたしのふたりが残ったような記憶だが、やんぬるかなの気分であった。ふたりは、浪人覚悟だったが、わたしは、かろうじてひとつ引っかかった。Tはたしか、4浪を続けたと思う。
地方の府立高校とはいえ、それなりの進学校だったので、3年になると友人たちは、計画的に受験勉強に励んでいた。もちろん「体育専門学校」の生徒としては、世間の政治的な運動ではなく、体育に明け暮れていたことも事実で、冬のさなかの凍るような畳の上での柔道や積雪で真っ白になったグランドでのラグビーは鮮烈な印象が残っている。
わたしは、個人的には、体力的には高校3年がピークだった。何しろ、仲間たちが受験勉強で体力をすり減らし、温存しようとしていたのに、それは関係ないと最初から半分あきらめていた私は、元気いっぱいだったのだ。体育の時間の1500メートルのタイムレースでは、体育クラブのメンバーでも体力をセーブしてスピードをゆるめるとトップを奪い、ここぞとばかりに、体育クラブのメンバーを従えて走るというのは、ちょっとした快感であった。

1970年、大学に入ったのは大阪万博の年。高校3年のときは、反博(はんばく)を唱えていたのに、大学の同級生たちと、万博に3回はいった。一度は、同級生の女の子がパビリオンでバイトしていたので、VIPカードをせしめて、仲間たちとあちこちのパビリオンを行列を尻目にハシゴして回った。東京の叔母には、アポロの月着陸は謀略だと説明していた自分は、アメリカ館の月の石をみて、感激していた。
万博が終わって、11月、学生会館でクラブの会報を先輩の指導のもと編集していたら、突如、三島由紀夫の市ヶ谷占拠と自決のニュースが伝わった。ラウンジのテレビの前は黒山の人だかりだった。夜自宅に帰ると朝日新聞の夕刊は総監室のデスクに並べられていた首を写した写真を掲載していた。ぼんやりしていたので、家族に首だよこれ、といっても、あまり信じてもらえなかった。

ストにいくこともなかったし、運動とも関わりがなかったが、大学でも学生運動に関わる友人がいた。私の志向もあって友人はセクトではなく、ノンセクトラジカルを自称する連中だった。
高校の友人たちも含め、かれらは、どうしているのだろうか。赤軍だったYはどうしただろう。Nとは高校以来全く縁が途絶えたが、彼は父親の跡を継いで地元の市会議員や市長も務めた。かれは、あいかわらず、政治的人間であり続けているのだろう。しかし、その他は、私も含めておそらくは、そうではないだろう。

ハイスクール1968 (新潮文庫)

ハイスクール1968 (新潮文庫)