Sig’s Book Diary

関心本の収集

『「環境」都市の真実:江戸の空になぜ鶴は飛んでいたのか』

original: http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/80bdb1fdcaa48c794ccc1764800237ad
根崎 光男、2008、『「環境」都市の真実:江戸の空になぜ鶴は飛んでいたのか』、講談社 (講談社プラスアルファ新書)

本書の「おわりに」のなかで、著者は執筆動機として「とりもなおさず江戸の町を環境的に理想化した本の氾濫と、それらによるゆがんだ江戸の「環境都市」像の広がりを危惧しているからであり、ありのままの江戸の環境事情を描きたい」ということであったと記している。たしかに、江戸時代ブームもあって、環境都市のイメージが強いが、考えてみると、それもこれも、現代の環境に対するイメージが投影しているのであって、たとえば、反故紙のリサイクルや屎尿の周辺農村での肥料としての利用は、現在問題視される「資源利用ののちは廃棄」という一方向ではなく、リサイクルして利用する方法が現在、強い関心を呼んでいることと関係があるだろう。だから、江戸の町を「環境都市」と理解することは、現在の環境観や環境政策と関連しているということであろう。
本書に描かれるように、鶴をはじめとする野鳥が江戸の空を舞っていたことは、歴代将軍の鷹狩りのための野鳥の保護であり、生類憐れみ綱吉の時代にしても、ほかの野鳥が保護されている一方、トンビやカラスが捕獲されているなど、「生類憐れみ」という仏教思想に基づく環境観でのみ理解することができない。しかし、逆の見方からすれば、環境保護に関する厳しい法令があれば、環境は維持できるとも見える。もっとも、綱吉時代には「生類憐れみ」のために鷹狩りは行われなかったが、帰って野鳥に関する関心が低下し、江戸の都市化の拡大と相まって、次代の吉宗の次代には、野鳥が激減していて、鷹狩りを復活するために改めて、野鳥保護をうちだしていたという。こうしたことは、厳しい法令といっても、なかなか一筋縄ではいかないということではあるが。
本書を読んでいて、興味を持ったのは、江戸の町の公衆便所の状況である。屎尿は売買される商品であって、下肥商人は辻辻に屎尿桶をおいて、屎尿を回収して肥料としようとするが、町方では、屎尿桶が通行の妨げとなり悪臭のもとであるとできるだけ設置をさけようとした一方、立ち小便が通常であって辻辻には尿の川ができていて、そのことについては、悪臭のもととは考えられていなかったという。こうした屎尿に関する不浄観が大変興味深かった。