Sig’s Book Diary

関心本の収集

『里と森の危機(クライシス): 暮らし多様化への提言』

original: http://blog.goo.ne.jp/sig_s/e/cdfa22792747c55789fec6a60fa98c8b

佐藤洋一郎、2005、『里と森の危機(クライシス): 暮らし多様化への提言』、朝日選書

里を取り巻く自然の豊かさは人間の暮らしのあり方と密接に結びついており、「暮らしの多様性」が失われてきたことが、ひとの暮らしと結びつく自然が失われつつあることにつながるので、「暮らしの多様性」を回復することが大切であると説く。

自然という言葉は、人間の生活とは離れたイメージを持つが、人類が道具や火を持つようになってからは、まったくの手付かずの自然というのは地球上のどこにもない。
たとえば、本書にも紹介されるオーストラリア先住民のアボリジニは、狩猟採集民としての生活の中で、「火」を使って森林や平原を「管理」してきた。ヨーロッパからの移民たちは「火」が家畜や穀物を危機に落としいれ、「自然」を破壊するというのでアボリジニたちの野焼を禁止して来た。
しかし、野焼を禁止するとオーストラリアの「自然」に卓越するユーカリ種の落葉は微生物を寄せ付けない成分を含んでいるので容易に分解されず林床にたまっていく。乾燥がちの大陸でひとたび自然発火が起こると林床にたまった落ち葉の炎は樹冠まで立ち上がり、樹木を枯らすだけでなく、大火になって大規模に「自然」を破壊してしまう。
現在は、国立公園の森林管理ですらその方法が変わり、定期的に火を入れて林床に蓄積される落葉を少量のうちに燃やすようになっている。じつは、アボリジニたちの野焼は一年のうち頻繁におこなわれ、このことが火による自然管理となっていたことが見出されたのである。オーストラリアの考古学者の故リス・ジョーンズはこれを「firestick farming」とよび、アボリジニたちの自然管理の知恵を「耕作」にもなぞらえた。

ここで、アボリジニの火付け(野焼)を取り上げたのは、狩猟採集をするという人類の原初的な生業形態ですらも、自然を手付かずの自然として放置しておくことなく、自然とともに生きてきたということを示したかったからだ。私たちの生活は、いかに工場生産されるような栽培植物ですら、「自然」の稔りなしには成り立たない。距離を置き眺めるのではなく、私たちの身近な、かかわりを持つべき存在としての「自然」と位置づけるべきなのだ。

本書の中で世界自然遺産に指定されたという秋田の「白神自然林」と山で暮らす「またぎ」の関係にふれられている。自然遺産に指定されたとたん、山で暮らす人々の立ち入りと山の実りの収穫が禁じられるようになったが、その白神ですら、山で暮らす人々にとっては、豊かな稔りをもたらしてくる「耕地」のひとつであって、人々の手が入ることによる自然の維持という状況もあったのである。
また、タイでの野生イネの管理についてのエピソードも興味深い。野生イネの生育地をタイ王室の力を借りて、人が立ち入らないように塀をめぐらしたとたん、塀の中の生育地は多様な植物が進入し野生イネは卓越した地位を失ってしまった。人の生活も含めたエコシステムのなかでの野生イネであったというわけである。

多様性の中での一存在としてのひとの暮らしという考え方に強く思いをはせたいものだ。