Sig’s Book Diary

関心本の収集

国境を越える

多和田葉子が「グラーツ、先端芸術の舞台」(『溶ける町透ける路』5、日経新聞2006年2月4日朝刊)というエッセイで、グラーツにおける前衛的な芸術祭「シュタイエルマルクの秋」*1について触れている*2
ここで書こうと思ったのは、このことではない。むしろ、このエッセーの文末で触れられている、グラーツの地理上の位置、国境についてである。グラーツハンガリースロベニアに接しており、多和田はユーゴスラビア崩壊のころスロベニアの詩人たちとグラーツ郊外の林の中を散歩した思い出を書く。

林の向こうには葡萄畑が広がっている。「国境はあの辺りかなあ」とRさんが急に言うので私は驚いて顔を上げたが、目の前には葡萄畑が広がっているだけだった。「どこ?」「あの辺り。あの葡萄畑の中のどこか。」冷戦時代から国境はワインの中に溶け込んでいて見えなかったと聞いて驚いた。

私は陸上で国境を超えた経験はほとんどない(多くの日本人はそうだろう)。国外に出るのも、飛行機を使うわけであるし、出国審査のゲートが国境である。思い出すと、陸上で国境を越えたのは一度、クアラルンプールからシンガポールへ鉄道で移動したときであった(1984年11月)。海峡の橋を越える手前で、列車は停止して係官が通路を歩いてゆき、たしか、パスポートを見せたと記憶する。列車がシンガポールの中央駅に到着し、ホームの端の入国審査のゲートでスタンプを押した。シンガポールで働くマレー人(あるいは、シンガポール人)は定期券のようなものをかざして、さっさと通り抜けた。ゲートで並んだのは外国人だけだった。
もうひとつは、国境ではなく州境なのだが、オーストラリアのノーザンテリトリーから西オーストラリアに抜けたときである(1986年9月)。ユーカリの疎林を抜ける「ワンレーン・ピッチメント」*3を走っているときだった。夕方、夕陽に向かって走っていると、道路わきに車が止まっているのが見え、制服の男が立っていた。手を上げてわれわれの車を静止した。「Western border」の表示があった。かれは、われわれに生の果物を載せていないか、乗せているならここで放棄するように言い、そして、思い出したように、時計を二時間戻すようにと言った。確か17時ごろのはずで、次の町クヌヌラ(Kununurra)に急いでいたのだが15時になり、早く町に到着しようとはやる気持ちが一気になえたのが思い出される。
国境(あるいは州境)と聞くと身構えていたのだが、えらく日常的で、あっけないものだった。物々しい越境というものとはちがうというのは、むしろ、望ましいのではないだろうか。もちろん、アイデンティティにかかわり、時には命さえ奪うことになる「境界線」は存在するし、その現実に目を背けることはできないのだが、それはむしろ特殊な状況であって、国境の存在を認めるとしても、葡萄畑のなかにある国境や通勤で簡単に超えることのできる国境などのほうが当たり前である世界が作り出されることがむしろ望ましいのではないだろうか。

*1:多和田のかかわった"Gratz city opera"についてのプログラムはこちら

*2:作曲家アプリンガーが製作しようとしたのは、町そのものをオペラにするというもので、街頭で聞こえてくる音を録音し、これを踏まえて多和田が録音された音を言語化し、さらには、町全体が舞台装置のようになるというコンセプト。このエッセーの冒頭はオペラの書割のような町という話で始まる。さらには、グラーツは、ユネスコ世界遺産でもある。

*3:道路幅は大きいのだが、中央の一車線部分だけが簡易舗装されていて、対向車がある場合には片足を未舗装部分に出すか、あるいは、対向車が大型の場合は、両足を未舗装部分に出してやり過ごす。ロードトレインとよぶ4両つなぎの巨大なトレーラーと対向するときには、相手のムカデの片足を未舗装に出すと、小石交じりの砂を巻き上げさせてひどい目にあうので、相手が巨大な場合には、こちらは両足を未舗装部分に出す。