Sig’s Book Diary

関心本の収集

女性天皇か女系天皇か

女性天皇はよいが、女系天皇は、男系で継承してきた天皇家にそぐわない」といった意見が昨今目立つようである。それならそれでよいが、私には、それでは天皇家は続かなくなると思える。
もちろん、旧宮家の復帰による男系継承という選択肢があり、例えば、旧竹田宮家の竹田恒泰による「旧皇族皇籍復帰覚悟を」という意見も述べられている(語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」)。また、かつての女性天皇には天皇位継いだ子はなかったと言うことから、女性天皇容認に関わらず、単婚による男子誕生は確実とは言えないから、複婚もしくは側室をもつべきとの意見もある。近くは明治天皇大正天皇は皇后(正妻)の子ではなく、さらに歴代天皇の半数近くが、妾腹であったとも言う。また、あまり聞かないが、陰の声としては(あるいは、現実的な判断としては)医学的生殖技術を使ってはどうか、といった意見もありうるだろう。
直系以外の宮家からの天皇は、室町時代以降に4例あるとのことであるが、そのために創設されたのが、伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮の4宮家である。以下の引用は「Wikipedia:宮家」である。最近の例でも18世紀で、今から約230年も前のことであったことがわかる。

戦後の臣籍降下まで約550年間の長きに渡って続いたのが伏見宮である。伏見宮は、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王(よしひとしんのう)が始祖である。第3代貞成親王(さだふさしんのう)の王子彦仁王が称光天皇崩御後、正長元年(1419年)に後花園天皇となって皇位を継承した。

桂宮家は、正親町天皇の第1皇子陽光院誠仁親王の第6王子智仁親王(としひとしんのう)によって創設された。智仁親王は、豊臣秀吉の養子であったが、天正17年(1589年)に秀吉に実子鶴松が生まれたために縁組が解消された。秀吉の奏請により、智仁親王に所領が与えられ、八条宮の称号を賜ったのが始まりである。以後、常盤井宮、京極宮、桂宮と改称し、明治14年1881年)の第12代当主淑子内親王薨去まで存続した。

有栖川宮家は、寛永2年(1625年)後陽成天皇の第7皇子好仁親王(よしひとしんのう)によって創設された。初めは高松宮と称した。好仁親王には後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で親王の甥に当たる良仁親王(ながひとしんのう)が第2代を継承し、花町宮または、桃園宮と称した。ところが、承応3年(1654年)兄の後光明天皇が没したため、良仁親王後西天皇として皇位を継承した。宮家は後西天皇の第2皇子幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。

閑院宮家は、皇統の断絶を危惧した新井白石の建言で創設された。東山天皇の第6皇子直仁親王(なおひとしんのう)が、幕府から1000石の所領を献上され、享保3年(1718年)皇兄中御門天皇から閑院宮の称号を賜った。新井白石の危惧は現実のものとなり、第2代典仁親王の王子兼仁王は後嗣の無いまま22歳の若さで没した後桃園天皇の跡を継ぎ、安永8年(1779年)光格天皇となった。

宮家は幕末から明治にかけて数多く創設されており、竹田宮もそうした宮家のひとつである。新設された宮家は以下の通り。梨本宮(伏見宮より)、山階宮伏見宮より)、久邇宮伏見宮より)、聖護院宮(伏見宮より)、北白川宮伏見宮より)、華頂宮伏見宮より)、小松宮伏見宮より)、賀陽宮久邇宮より)、東伏見宮伏見宮より)、朝香宮久邇宮より)、竹田宮北白川宮より)、東久邇宮久邇宮より)である。これらの継承関係についてはとりあえず、「天皇家略系図4(宮家)」が参考になった。
こうした宮家から迎える天皇というのはかなり血縁的には遠いので、逆に天皇家直系からの女系による関係を見てみることにする。では、伏見宮の創設以来、直系からの宮家への降嫁の事例を見てみよう。このデータは、「世界帝王事典:各家成員リスト:天皇家および宮家」より得ている。この資料によると、以下のように6例あり最近の4例が明治天皇の皇女である。

天皇 母親 外戚 皇女名 嫁ぎ先
霊元天皇 中宮原宗子1657-1732 松木宗条(藤原北家頼宗流) 福子内親王(1676−1707) 伏見宮邦永親王
東山天皇 中宮幸子女王 有栖川宮 幸仁親王 秋子内親王(1700−1756) 伏見宮貞建親王
明治天皇 園祥子1867-1947 園基祥(藤原北家一条家門流羽林家流中御門家) 昌子内親王( ?−1940) 竹田宮恒久王
明治天皇 同上 同上 房子内親王(1890−1933) 北白川宮成久王
明治天皇 同上 同上 允子内親王(1890−1933) 朝香宮鳩彦王
明治天皇 同上 同上 聡子内親王( ?−1978) 東久邇宮稔彦王

明治天皇の皇女の血をひく旧宮家がおそらく皇籍復帰の対象と考えられているものと思われるが、しかし、皮肉なことに、明治天皇の正妻たる昭憲皇后には、子供がなく、上記の皇女も大正天皇も、側室の子であった。そして、現在の天皇家の系譜につなげるためには、女系でたどることになり、女系天皇反対論者でありかつ旧皇族皇籍復帰を想定している論者にとっては、その立論の大いなる瑕疵になると思われる。もちろん、庶民と支配者(特には王族)との間には婚姻システムの相違が合意されているケースが多く、同時に、側室といっても、「ふさわしい」と考えられた相手が選ばれる(たとえば、藤原氏)。しかし、複婚を想定することは、現在の社会通念上、国民的合意が得られるかどうか、かなり綱渡りとなると考えられる(例えば、「三笠宮発言に思う」)。
以前同僚だった年配の方が、昭和天皇崩御のときに唱えられた天皇家の「枯死説」が、その当時以上にかなりリアリティを持ってきているのではないかと思われる。女性天皇は承認するとしても女系天皇は皇統継承の伝統にふさわしくないと否定すれば、継承者がいなくなる。かといって、認める訳にもいかない・・・。
どうするんでしょうね。

ここまで書いた後、考えてみたが、一部の例外(たとえば、徳川氏)を除いて、天皇家の嫁はおおむね藤原氏であり、母系をたどれば、天皇家の系譜の母方はほぼすべて藤原氏といってもよいだろう(たとえば、「天皇家の家系図:「万世一系」と「女性天皇」を考える」)。とすると、宮家などによる緊急避難的な襲祚があったとしても、藤原家の側から見れば、つまりは女系としては問題なく本流をたどっているということかもしれない(おそらく、誰を後継にするかの判断の時点で、傍系あるいは他系の子を持ってくることはないだろう)。とすれば、女系天皇の問題については、あとは、名をとるのか、実を取るのかということになるのではないか。こうした状況を考慮すると、これまでの前例を踏襲する通り一遍の考え方ではなく、国民が合意できるあらたな筋道を見出すことも、大切なのではないだろうか。

補足(20060204)
天皇家の系譜で、母方について書いた部分で、かきもらしたのは、最近の天皇の母親である。

天皇 母親名 外戚 出自
徳仁皇太子) 正田美智子 正田英三郎 民間
今上天皇 香淳皇后良子女王 久邇宮邦彦王 宮家
昭和天皇 貞明皇后九条節子 九条道孝 藤原北家九条家
大正天皇 典侍柳原愛子(側室) 柳原光愛 藤原北家近衛家門流日野家
明治天皇 典侍中山慶子(側室) 中山忠能 藤原北家一条家門流
孝明天皇 女院藤原雅子(側室) 正親町実光 藤原北家一条家門流羽林家
仁孝天皇 女院藤原婧子(側室) 勧修寺経逸 藤原北家九条家門流
光格天皇 閑院宮家より)

上記を調べるうちに出会ったのが「歴史資料館」というサイト。藤原家の家系が綿密に記載されている。